道北・宗谷本線の旅について、わかりやすく解説してゆきます!
美深・音威子府の地理・歴史を、やさしく解説してゆきます!
名寄駅を出て、音威子府(おといねっぷ)方面へ
今回は名寄駅(北海道名寄市)を出て、宗谷本線をさらに北上してゆき、
- 音威子府駅
- 天塩中川駅
の方面へと向かってゆきます。
名寄駅を出ると、まずは
- 美深駅
を過ぎ、音威子府方面へ向かってゆきます。
この時点で、宗谷本線の半分以上は進んできています。
かつて美幸線(びこうせん)との分岐駅だった、美深駅
美深駅(北海道中川郡美深町)から東の方面へは、かつて
- 美幸線
という路線が出ていました。
美幸線は、美深町からさらに北東にある、オホーツク海岸側の
- 枝幸町
という町までを繋げることを目的としていた路線です。
- 美:美深
- 幸:枝幸
で、美幸線です。
しかし実際には枝幸町まで繋がることはなく、すぐ途中にある
- 辺渓駅
- 仁宇布駅
までを結んでいた、わずか約20キロにおよぶ路線が建設されてたに過ぎませんでした。
つまり、美深駅から東へ約20キロの山深くにある仁宇布駅までの区間を走っていたに過ぎず、その美深駅から仁宇布駅までの区間すらも、1985年には廃止になってしまいました。
やはり、最初は
と意気込んで建設しようと試みたものの、
- 人口減少と自動車の普及(モータリゼーション)には勝てず、
- また、たとえ建設したとしても、利益が上がらないことがわかっているのならば、建設意義も無くしてしまう
ため、建設断念・廃止へと追い込まれてしまったのでしょう。
美幸線に沿って走っていた、ペンケニウプ川
美幸線は「ペンケニウプ川」という川に沿って走っていました。
- 辺渓駅(北海道中川郡美深町)
- 仁宇布駅(北海道中川郡美深町)
という独特な駅名は、この「ペンケニウプ川」に由来しているわけですね。
「ペンケ」とは、アイヌ語で「川上の~」という意味です。
「ニウプ」とは、アイヌ語で「森林」を意味します。
つまり「ペンケニウプ」で「川の上に繁る森林」のような意味になるでしょう。
類語として、「パンケ」はアイヌ語で「川の下の」という意味になります。
美深町からさらに北西の幌延町にあるサロベツ川の横に、
- 「ペンケ沼」
- 「パンケ沼」
があります。確かに、
- ペンケ沼の方が、川の上流側に
- パンケ沼の方が、川の下流側に
あるため、こう考えると似た名前でも覚えやすいです。
そして、はるか北東・オホーツク海側にある町である枝幸は、道南・西海岸側の江差と語源が同じの地名になります。
江差は、かつて
- 木古内駅(北海道上磯郡木古内町)
から
- 江差線
で北西方面へ進んだ先にある町であり、檜山地方の町です。
木古内駅は、
- 北海道新幹線
- 道南いさりび鉄道
が分岐する駅です。
檜山地方の江差町と区別するため、
- 檜山江差
- 北見枝幸
と呼ばれ、区別されます。
前回、名寄駅から名寄本線と深名線という路線が出ていた、という話をしました。
つまり、北海道には(今は多くが廃止になっているものの)かつてたくさんの路線があったということですね。
北海道一人口の少ない村・音威子府に到着
やがて
- 咲来駅(北海道中川郡音威子府村)
を過ぎて、
- 音威子府駅(北海道中川郡音威子府村)
に到着します。

音威子府駅(北海道中川郡音威子府村)
参考までに、北海道で一番(むしろ日本で一番)人口が少ない市は、人口約2,700人の歌志内市になります。
また、日本の市町村で最も人口が少ない村は東京都・伊豆諸島・青ヶ島の青ヶ島村であり、人口170人です。
つまり、音威子府村は決して日本一人口が少ない村というわけではない、ということに注意です。
音威子府はとてもユニークな地名であり、かなり無理矢理な(?)当て字にもなっていますが、もちろんアイヌ語由来の言葉です。
「イ」に「威」の文字を、「ネ」に「子」を充てるのが、なんともインパクト大です。
音威子府村の人口減少の原因として、
- 「札幌一極集中」
- 「少子高齢化」
- 「交通アクセスの悪さ」
などの理由は、もちろん存在します。
しかしそれ例外にも、
「老人ホームなどの介護施設が、村に存在しない」
という致命的な問題があります。
これによって、高齢者となった方々はもはや村には住めなくなるため、村を出ていってしまいます。
すると、その介護をする家族も共に村から出ることになってしまいます。
その結果として、大幅な転出超過となってしまい、人口減少が著しくなってしまうというわけです。
老人ホームを建てるにも多額の税金・予算が必要ですから、なかなか介護施設が出来るのは難しいのでしょう。
音威子府村は「そば(音威子府そば)」が有名だったのですが、人口減少やオーナーの高齢化などの要因もあり、その工場や店舗は近年どんどん廃業してしまっています。
ただし、現在では
- 東京・新宿と
- 千葉県茂原市
で、有志の方々によって引き続き「音威子府そば」の営業が続けられています。
音威子府駅の北へ出ていた、天北線
現在の音威子府駅から先は、一旦西へカーブし、ふたたび稚内方面へと北上します。
しかし、かつて音威子府駅の北へは、天北線という線路が出ていました。
というか、元々はこちらの天北線が、元祖・宗谷本線だったのです。
天北線は、途中でオホーツク海岸の
- 浜頓別町
- 猿払村
などを通り、南稚内駅で宗谷本線と合流する形でした。
浜頓別町は、クッチャロ湖があるところですね。
クッチャロ湖は、道東・弟子屈の屈斜路湖と語源が同じです(もちろん、アイヌ語由来)。
ちなみに屈斜路湖は、摩周湖のある弟子屈町にある、日本最大のカルデラ湖です。
カルデラ湖とは、火山が噴火して凹んだところに、雨水などがたまってできた湖です。
クッチャロ湖と屈斜路湖は全く別の湖なので、注意しましょう。
他にも、
- 稚内のノシャップ岬
- 根室の納沙布岬
も、語源が同じですが、別の地名になります。
天北線に話を戻します。
天北線は先述の通り、音威子府駅からオホーツク海側を経由して、南稚内駅みなみわっかないえきへと至る路線でした。
つまり南稚内駅は、現在の宗谷本線(旧:天塩線/てしおせん)と、その天北線が合流・分岐する駅でした。
音威子府駅と南稚内駅で、道北に巨大な線路の円を描いていたのですね。
南稚内駅は、初代の稚内駅だったのです。
しかし、樺太(サハリン)へ向かう稚内港の桟橋から2kmも離れた位置にあったため、人々はかなり歩いて桟橋へと向かう必要があり、船への乗り換えが不便だったのでした。
そうして出来たのが、現代の
- 稚内駅(北海道稚内市)
というわけです。
そして、元々あった稚内駅は、南稚内駅と改称されたわけですね。
次回は天塩川に沿い、幌延方面へ
音威子府駅を出ると、天塩川をさらに北へ進み、
- 幌延町
の方面へと向かってゆきます。
今回はここまでです。最後までお読みいただきありがとうございました!
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